十三世 木津屋治郎兵衛の御先祖、名棟梁 米田屋治郎兵衛(米屋治郎兵衛)
豊臣秀吉の時代にはすでに創業しており、近年までとても大きな仕事をしていました。宮大工として、神社仏閣などの普請に携わり、歴史的にも重要な仕事をいたしました。その業績の研究を行いながら、このページでご紹介いたします。
豊臣秀吉の時代からの創業と伝わり、寶暦(宝暦)年間には創業していた記録が残っております。元は宮大工をしており、現在までに記録が残っている仕事だけでも、京都御所、住吉大社、石清水八幡宮、大江神社、堀越神社などの工事に携わっています。
京都御所は、嘉永7年(1853年)に火災で焼失し、安政2年(1855年)に再建されました。この時の造営に、米屋治郎兵衛がくわわっています。
「京都禁裡御所御造営人別帳」(安政2年)という文書に名前が記されています。
造営された内裏(御所)は安政内裏(あんせいだいり)と呼ばれ、今ある建物がそれです。
堀越神社(ほりこしじんじゃ)は、熊野第一王子之宮で知られる聖徳太子創建のお社でございます。
十三世木津屋治郎兵衛から数えて4代前の米田金次郎の縄墨により本殿が建てられ、記録も残っております。米田金次郎による神殿は太平洋戦争で消失し、今の神殿は戦後に建て直されたものでございます。
道路拡張などにより境内が小さくなりましたが、昔はとても広い敷地の神社でございました。
御鎮座:天王寺区茶臼山町 御祭神:崇峻天皇
どのお社に関わったかは、まだ調べておりません。
大阪は夕陽丘の大江神社。天王寺七宮の一つです。
十三世木津屋治郎兵衛から数えて3代前の米田治郎兵衛(よねだじろべい)は幼名を米田慶治郎と申しましたが、米田家の代々の慣わしにより、治郎兵衛の名跡を襲名いたしました。その父は米田勝治郎と申しますが、こちらも米田治郎兵衛を襲名しております。宝暦年間の中興の租である米田屋治郎兵衛までは確認出来ておりますが、やはり、木津屋同様、代々治郎兵衛の名跡を襲名しておりました。
屋号は、はじめ米屋としておりました。ですから、当主の名は米屋治郎兵衛です。大正7年に屋号を改め、米田屋となりました。
大阪府大阪市天王寺区逢坂1丁目1番7号 四天王寺の西側にあたります。
この辺りは、飛鳥時代創業の「金剛組」など、老舗の工務店が多くございました。四天王寺さんなどの宮大工に起源を持つ店もあるようです。
写真上 : 大阪府立夕陽丘図書館 ( 現在 : 関西特許情報センター ) ↑
天王寺動物園ゲート
東榮山源聖寺
大阪市天王寺区下寺町
南隣にある「 源聖寺坂 」の名は、この源聖寺に由来します。源聖寺坂は天王寺七坂の一つ。
四天王寺創建の聖徳太子様は、大工の神様としても知られております。
大工技術の始祖として四天王寺境内の番匠堂(ばんしょうどう)というお社にお祭りされております。
米田屋は四天王寺さんのお膝元ですので、金剛組などとともに四天王寺の工事にも関わっていたと思われますが、古文書の確認ができていません。
古い歴史があるようですが、詳細は未調査でございます。四天王寺さんのお膝元ということもあり、ルーツは四天王寺の創建にまでも遡るのでは?」と夢が広がったりもいたします。とある統計に拠りますと、日本で300番目位に多い姓で、関西では奈良県に多いようです。詳しいことをお知りの方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えて頂きたく存じます。よろしくお願いいたします。
出版物
「近代大阪の建築」 編集:社団法人大阪建築士会 発行:鰍ャょうせい
「新建築住宅特集 1999年6月号」 発行:新建築社
「伊藤萬五十年史」 伊藤萬株式会社 昭和8年発行
「伊藤萬百年史」 伊藤萬株式会社 昭和58年11月1日発行