木津城は、木津砦とも呼ばれています。戦(いくさ)のためのもので、お殿様が住むお城ではなかったからです
砦としての木津城は、長年に渡り、大きな役目を果たしました
( ここで取り上げる城は、京都/山城国の木津城ではありません )
木津城のあった場所は、学術的には判っていません
色々な文献や、フィールドワークなどの調査から、その場所を確定していきます
木津城はどこにあったか? 木津城址探しの旅をつづります
元亀元年9月12日(1570年10月11日)から、天正8年8月2日(1580年9月10日)
木津川の河口は、今とは違い、三軒家川と木津川の合流点あたりだったと考えられます
木津城で行われた戦いは、「木津川口の戦い」と呼ばれています
→ 木津川
かみんぐす〜ん
戦国時代の僧侶の中には、戦国武将のような働きをする人がいました
木津城があったことを今に伝える地名です
ここが城跡だとする記事をいくつか見ましたが、ここではないと考察しています
この公園の場所か、もしくはこのあたりが、木津城の城跡と考えます (2022年10月16日公開)
写真の奥の木が出城西公園です。手前は土地が低くなっており、かつては海浜であったと考えます
赤城橋、出城橋
(執筆中)
かみんぐす〜ん
現在の西成区津守の地は、かつては海浜もしくは湿地帯であり、砦を築くには向いていなかったと考えられます
しかし、砦が二段構え、三段構えであったなどで、何らかの構造物がこの地(北津守3丁目・4丁目)に造られた可能性も考えられます
また、「津守」という地名も考察のひとつです
石山合戦は、こちら浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いでした
しかし、織田信長の姉、くらの方 ( くらのかた )は、当家のご先祖(大橋家)の兄弟である大橋重長に嫁入りしていました。時期は石山合戦の前です
戦国時代は、子孫同士が敵と味方になったりすることは、常にあったようです
木津城/木津砦の研究 : 【 木津屋 】 大阪市西区南堀江4-23-27 06-4391-0704
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