大阪の木津をご紹介。 木津屋の名は、この木津に由来しています。
木津の起こりは、聖徳太子さまの政(まつりごと)が元になっています
木津の「 木 」は、四天王寺を建立した「 木 」のことです
荒陵の地に四天王寺が建てられることになり、諸国から木材が集められました。
木を集め置いた津なので、木の津です
木の津 : きのつ
長らく「木の津」が地名として呼ばれていたと考えられます
後に、木津となっていたと考えられます
木の津と呼ばれた地名から、やがて、木津村ができました
「 東 」「 西 」「 中 」「 新 」「 岡 」「 大 」「 北西 」「 大道 」などの町がありました
村と云っても、その中にたくさんの町があり、にぎわいのあるものでした
木津への道標 : 天王寺区逢坂
「木津難波道」
かつて、難波村、法善寺あたりから木津に続く道は、木津難波道と呼ばれていたようです
木の津は、その昔、欽明天皇の行宮があった地であります
写真: 丸山古墳 (橿原市)
欽明天皇の御陵であるという説があります
欽明天皇の妃に、和珥糠君娘がいらっしゃいます。糠君娘は小野妹子と同じ和邇氏の人です。このことからも、当家のご先祖がこの地に来たつながりを感じます。
欽明天皇の行宮があった地に、聖徳太子の命により建てられたお寺です。木の津は、かつて禁裏であった素晴らしい地であります。かつては、景勝地でした
今の境内は、元の地から数百メートルほど移されています
元あった地名 : 木津 字堂面、その後、木津北島町2丁目となりました
牡丹の名所
「大坂けんんぶつ」(矢嶋嘉平次 著 明治28年5月発行)に、四季遊覧所として紹介されています
ごきげんよう!
「 ごきげんよう 」は、今、たくさんの学校で使われている挨拶の言葉です。この「 ごきげんよう 」の挨拶の考案者は、木津が生んだ跡見花蹊 ( あとみかけい )さんです
跡見学園の創設者 跡見花蹊さんが出たお家
木津屋のご先祖のお寺とお隣で、深くかかわりがございました
迹見赤檮 ( とみのいちい )
聖徳太子さまの下、木津屋のご先祖と共に戦い、手柄を立てました
茶道の木津宗詮は、木津の出です
代々、活躍を続けています。武者小路千家の教授をつとめています
木津屋とは10代ほど遡れば繋がる親戚のお家です
木津川の治水、勘助島の開発などを行った土木工事の達人です
1610年、木津村に移住しました。本名は中村勘助で、木津の名は木津村に由来します
寛永7年(1630年)木津川の浚渫工事をしました
木津村を流れる川
木津川のページ → 木津川
町名
南海汐見橋線
大阪市内で指折りのレトロな駅
かつてあった飛行場
東西に伸びる滑走路
海からの風を利用したと思われます
by 治郎兵衛 → ハンググライダー
大阪第二飛行場(伊丹空港)ができるまで、国内最大規模の航空拠点でした
木津屋の創業と同じ頃、木津村に市が立ちはじめました。
その後、木津村の名から、木津市場となりました。
織田信長と十年あまりに渡り戦い、歴史に残る働きをしました
木津城のページ → 木津城
まったく見られなくなっている名称ですが、かつて存在したいました。おそらくは、木津川の河口あたりのことかと考えられます
江戸時代に、木津港を詠んだ漢詩があります (儒学者 篠崎竹陰)
木津港 篠崎武江
萬檣舟泊木津川 一點燈臨墨浦波 東語西音互相問 明朝風候容如何
木津村の伝統野菜
その他、菜類、茄子(なす)、南瓜(なんきん)、西瓜(すいか)、若牛蒡(わかごぼう)、分葱(わけぎ)、芋類も、作られていました。 (出典:木津市場史)
木津村の南の端あたりです
大阪府大阪市西成区松2丁目3-13
鼬川(いたちがわ)
木津村の北の端。これより北は難波村。
鼬川のページ → 鼬川
元は木津川の流れで、のち、木津川の支流に
折口信夫の生誕地
司馬遼太郎さんは、かつての木津村の北の端あたりに生まれました。また、家が薬局ということで、木津屋とのご縁を感じます。
木津屋のある南堀江に住まれていたこともございました。
司馬遼太郎さんの小説 「俄 浪華遊侠伝」に、木津村がでてきます。唐薬問屋の加賀源(加賀屋源兵衛)の寮が木津村にあります。薬問屋というのも木津屋と重なり、趣深い内容になっています。
木の津、木津の地名ができる前から、敷津という名がありました。
もしほ草敷津の浦の寝覚めにはしぐれにのみや袖はぬれける (俊恵法師)
木津村南部の西側に開墾された津守新田にご鎮座しています
江戸時代、木津屋創業の少し前にできました
木津の願泉寺から堀江に出て、商家となる
★ まだまだ作りかけです。 ご期待ください