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祇園信仰、スサノオノミコトにまつわること (まだまだ未整理のデータです)
祇園から津島へ
東の祇園、西の津島
八坂神社(祇園社、感神院)を守っていた社家 八坂造の一族は、「 八坂の郷 」に住んでいました
具体的に、どこからどのあたりが「 八坂の郷 」なのかは、未調査です
← 写真左側が、八坂神社と八坂の郷の方向
(東山山頂公園展望台より西の方角を望む)
今の時代、祇園(ぎおん)といえば、京都の地名ということですが、かつては、信仰の名前として日本国のいたるところに広まっていたようです
写真 : 難波八阪神社の石灯篭 「 祇園會 」 (祇園会)
掛巻くも畏き八坂神社御祭神は 皇祖誘 (執筆中)
由緒
中村勘助源義久が、正保4年9月1日(1647年) 、京都八坂神社御分霊を勧請し、当町丸島(三軒家東二丁目ほぼ中央)に御神殿を造営
やさか神社、およびスサノオノミコトをお祀りの神社は、たくさんあります
八坂神社のつながりの、弥栄神社(彌榮神社 彌栄神社)、八阪神社、祇園神社など名称の神社もあります
木津屋の地ゆかりの難波八阪神社 ↑
起源は南北朝時代にあります
後醍醐天皇の曾孫、良王親王が津島に逃れました。津島の四家七苗字の武士が、船遊びに見せかけて北朝方の武士を討ち取り、良王親王を守ったことに由来しています
四家七苗字の「 四家 」は大橋、岡本、恒川、山川で、「 七苗字 」は堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村です
大橋家、恒川家、堀田家、服部家は、発起人のご先祖で、平野家、真野家は外戚です
他に、須佐之男命にまつわる説もあります
スサノオノミコトを祀る神社で、明治時代になるまでは、祭神名を牛頭天王とされていたことが多いです。しかし、さらに古い時代の文献には牛頭天王の表記がないようです
神仏習合と云われていますが、それ以外の要因もあったのかしれません
明治時代になって、牛頭天王の表記がなくなった理由は明確に判っています
牛頭天王の名前が古い石灯篭などに残っています
写真 : 難波八阪神社
神社と寺院があいまいな時代がありました。発起人のご先祖(小野氏)の寺院においても、薬師堂に牛頭天王を産土神としてお祀りていました
後、牛頭天王は敷津松之宮に移りました
是の汝が女は 我に奉らむや 建速須佐之男命 ( たけはやすさのおのみこと )
【 八坂の会 】 大阪府大阪市西区南堀江4-23-27 木津屋 06-4391-0704
発起人 : 八坂造の子孫、日下治郎兵衛( くさかじろべい ) 〜 創祀者から43代目