商家のしきたり

老舗商家、特に関西の旧家に伝わる仕来り(しきたり)を記します。

商家の家訓

 商家は、大店になったり旧家になってくると、家訓を定めているお家が多くございました。ただし、成文律で なく、不文律の場合もございます。
 家訓に良く登場する有名なものに「始末」という言葉がございます。大阪では、現在でもお馴染みの言葉でございます。意味は倹約と重なる部分もございますが、結構、奥の深い言葉でございます。ケチることと誤解されがちでございますが、全く違います。
 「始末」とは、始めと終わりのことで、商いの一貫した計画性のことでございます。お金の出入りを正しく行い、無駄な出費をしないことでございます。そして、必要とあらば惜しみなくお金を使うことも「始末」でございます。

大城神社の撫で牛 【牛の涎】
 商いを続け、継承していくことに重点を置いている家訓が多くございます。商いが盛況であることに浮かれてお家が破綻することがないよう、「牛の涎(よだれ)」のような細く長い商いが大切と考えられてきました。それは、お客様、取引先に対する姿勢でもございます。目先の利に捉われるのではなく、長い付き合いを重んじる考え方でございます。


倹約の家訓 「木津屋」では、家訓という形での正式な古文書は見つかっておりませんが、遺言状形式の古文書に「倹約」「家業を大切に」「賭け事を慎むこと」「子孫のために」などの文言が見られます。また、「倹約」の精神も受け継がれてきております。

 近江商人の家訓「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」は有名でございます。



名跡襲名

 歌舞伎や浄瑠璃などの世界と同様に、昔の商家では、代々同じ名前を襲名しておりました。最近は、ほとんど見られなくなりましたが、現在でも、ごく一部の老舗の商家で、名跡襲名をされているお家も残っているみたいでございます。
 襲名の時期でございますが、当家「木津屋」の場合、十世は二十歳の時に襲名したことが記録に残っております。ただし、先代の状況などもあり、早くなったりすることもあろうかと思われます。

代と世

当家では当主を、十三世のように何世という呼び方をしております。お家によっては十三代など、何代という呼び方のところもございます。代で数えるお家の方が多いと思います。何代と何世の違いは何かということですが、考え方はいくつかあります。当家はなぜ「世」なのかとなると、ずっと「世」で続いてきたというのが一番の答えでございます。


商家の役職

 当主 → 番頭 → 手代 → 丁稚

 お家の坊ん坊ん(ぼんぼん)であっても、未熟な内は、奉公人と同じ扱いをすることが、多かったようでございます。

お家と使用人

 家々によっての違いはあるかと思われますが、お家の者と使用人は寝食を共にして、本当の家族のような関係を築いていたのではと考えられます。例えば、「木津屋」の先祖代々のお墓には、親族以外の使用人のお墓も並んで建てられ、それが今日まで残っており、共にお祀りをいたしております。
 このようなことからも察するところ、昔の商家では、お家の者、番頭、手代、丁稚が皆、一つの家族のように生活し、日々の仕事を行っていたのではないでしょうか。
 ちなみに、当家のお墓があるお寺の墓地には、「油屋」「灘波屋」などの屋号が見られます。やはり古い商家で、「木津屋」と同様の旧家特有の慣習があったと思われます。


商家の跡取

婿養子

 旧家というものは、代々跡取の者が継承してきたからこそ存在するのでございますが、常に跡取の男子に恵まれるとは限りません。また、男子には恵まれても、商家の場合には、商人としての手腕・器がなければ、お家を潰してしまうことに相成りかねません。そこで、婿養子という慣わしがあり、有名な豪商のお家でも度々行われてきました。何よりも暖簾の継承を大切にする商家の特徴でございます。
 「木津屋」においても、歴代当主に婿養子がおり、女系の構造が見られます。戦前の大阪の商家は女系が多かったようでございます。
 また、一度養子縁組をしたお家とは何度も嫁入り、婿入りを繰り返すことも多かったようです。云うならば、親戚のお家間でのやりとりが多かったのではないでしょうか。

山田幸太郎邸 明治から大正の時代に活躍した、十一世 木津屋治郎兵衛も婿養子でございました。

(写真)十一世 木津屋治郎兵衛の生家
奈良県香芝市穴虫の豪商 山田幸太郎邸
(お堀を配した武家屋敷調の建物)
かつては「木幸さん」と呼ばれ栄華を極めました。

 宮様もお泊りになられたお屋敷でございます。


家督

 「家督」(かとく)は、殆ど使われなくなった言葉です。現在の社会は、個人の集まりという感じになておりますが、昔は、「お家」単位で社会が形成されていました。その際、重要になるのが「家督」です。これを誰が継ぐかというのが争いの元でもございました。


暖簾分け

分家

 商家の同族間で同じ生業を持っていたようです。これは、分家の暖簾分け(のれんわけ)に因るものでございます。
 江戸時代の商家は、暖簾を最も大切にしており、跡継ぎ(家督の相続)には大変苦労をしておったようです。場合によっては、血筋よりもお家の存続を大切にしておりました。
 番頭さんへの暖簾分けである別家の場合は、同業の商いはいたしません。

分家・別家

 分家と別家の言葉の使い方は、地方、お家によってまちまちでございます。別宅という言葉が使われることもございました。古文書を読む時などは、その都度、考察する必要がございます。


灘波村 日下久悦
 木津屋のある堀江から道頓堀を越えて南側に難波村がありました。その難波村にある難波八坂神社の側に、薬の商家「日下久悦」が ございました。現在の浪速区元町にあたります。「日下久悦」では、「拳法の内秘術金瘡薬」などの薬を調合し販売しておりました。

 日下久悦の名跡も代々襲名しておったようですが、明治時代の日下久悦氏は、関西の雅楽の礎を築いた「天王寺楽所 雅亮会」の発足に携わり、自らも笛の演奏者として活躍。また昭和初期の頃の日下久悦 氏は、植物学者の牧野富太郎博士の研究活動を支援するなどの活躍をされた人物でございます。

長堀鰻谷の木津屋
 長堀鰻谷の銅吹所泉屋(いずみや)の隣に、薬と炭を扱う、木津屋という大店の商家がございました。銅吹所泉屋の地は、後の住友家本邸で、現在は島之内という地名になっております。鰻谷の木津屋の当主は木津屋五郎兵衛(木津屋五兵衛)と申しました。堀江の木津屋との系図などは調査中でございますが、本家分家の関係の同族であったものと考えられます。

 鰻谷の木津屋は、長堀川と東横堀川に面する地で、住友家の銅吹所泉屋の東側に位置します。

(注)銅吹所泉屋は、「銅吹處いづみや」とする昔の文献がございます。
(注)長堀鰻谷はその昔、長堀茂左衛門町や長堀治郎兵衛町という地名でした。

 長堀の木津屋も、たいへんな大店でございましたが、これまた豪商の「辰巳屋」から養子に来ていた木津屋吉兵衛が、「辰巳屋騒動」で有名になりました。また、木津屋吉兵衛家の娘、於雪は、歌舞伎の演目にもなっている「奴の小万」の主人公、木津屋於雪でご座います。木津屋於雪は、後に三好正慶尼(みよししょうけいに)となりました。

 「辰巳屋」は後に、当家と同じ南堀江に移転しております。

鰻谷の木津屋


天王寺区薪炭小売商業組合 長堀の木津屋は炭も扱っておりましたが、十二世 木津屋治郎兵衛に嫁いできた御寮さんの出た家も、炭を扱う商家でございました。昭和時代の屋号は「天政燃料店」と云い、当主は天王寺区薪炭小売商業組合理事長を務めておりました。


 写真:天王寺区薪炭小売商業組合 前列右端は「天政燃料店」当主の澤村常次郎


中船場町の木津屋
 享保年間の古文書に、中船場町の木津屋四郎兵衛という名前が確認されています。中船場町とは現在の淡路町でございます。淡路町は道修町や平野町と並び、江戸時代より薬種中買仲間や唐薬問屋などの薬種商が集まり、薬の町として栄えた地域でございます。当家木津屋治郎兵衛との関連も考えられますが、確証となる古文書は確認いたしておりません。

 上中之島(現在の中之島1丁目)にあった備中成羽藩(山崎主税助治正)の蔵屋敷の名代に、木津屋四郎兵衛という名前が確認されています(延享4年の調査)。中船場町の木津屋四郎兵衛と同時期なので同一人物かと思われます(調査中)。


大坂の商家

船場言葉

 船場言葉に代表されるように、大坂の商家には商家独特の言葉がございました。現在の大阪弁とはかなり違います。船場に隣接する堀江界隈も、船場言葉と似通っていたようでございます。特に、当家「木津屋」におきましては、薬の町である道修町界隈で取引があったので、ほぼ船場言葉と同じであったと思われます。

当主:親旦那さん(おやだんさん)
当主の妻:お家さん(おえさん)
次期当主:旦那さん(だんさん)
次期当主の妻:御寮人さん(ごりょうさん、ごりょんさん)
長男:ぼん
次男から下の息子:こぼんちゃん
3人以上息子がいる場合は、真ん中の子を「なかぼんちゃん」、下の子を「こぼんちゃん」と呼び別けていました。
一番年下の娘:こいさん
一番年上の娘:姉嬢さん(あねいとさん)
その間の娘:なかちゃん、中嬢さん(なかいとさん) などなど。


上方商法

 大坂(大阪)の商いは、上方商法と呼ばれています。


戦後の大阪の商家

 戦後の大阪の商家は、大きく2つに分かれたのではないでしょうか。
 一、戦火で焼け払われたり、人を亡くしたりし、その後の継続を断念した商家。
 一、戦火を免れた、もしくは戦火によって被害を受けたが、踏ん張って再建した商家。

 また、戦後も継続した商家もまた、2つに分かれております。
 一、株式会社などの法人となった商家。
 一、京都に良く見られるような、昔ながらの形を維持し続けている商家。

 法人化した商家であっても、殆ど形式だけの法人で、実際は昔ながらの形を維持し続けているお家と、大企業化したお家がございます。この場合、商家としての要素は失われており、また、経営権が親族以外の者に渡り、全く商家とは言えなくなっているケースもございます。

 大阪大空襲後の航空写真を見るに、中心部は殆ど全てと言っていいほど、焼け野原になっています。よくぞここまで立ち直ったものでございます。


商家の信仰

神農さん

少彦名神社

 北御堂、南御堂が創建された時、信仰心の厚い商人がその周りに集まって来て、町が出来ていきました。そのように昔の商人は、各自の信仰するお寺や神社に参って、日々の商いの無事とお家の繁栄を願ったのではないでしょうか。
 薬の町、道修町にある少彦名神社は、日本の薬祖神である少彦名命と、医薬の神様でもある神農氏をお祀りしておられます。神農さんの愛称で親しまれる少彦名神社には、昔から薬を扱う商人などが参ってきました。そしてその中に、当家「木津屋」の御先祖の姿もあったことが古文書により伝わっております。


神農さん

 すくなひこなのみこと(すくなびこなのみこと)の漢字表記は、少名彦命、少名毘古那命、少名毘古名命もあります。また、少彦名神、少名彦神、少名毘古那神、少名毘古名神とも称されます。言霊の国日本は、文字より音が大切なので、当て字なのではと思われます。

(写真上)大阪道修町、神農さん(少彦名神社)の本殿。
(写真右)「木津屋」に160年前から伝わる、神農図の掛軸でございます。



南宮神社

廣田神社摂社

南宮神社

 えびす神社の総本社である西宮神社の境内に、南宮神社がございます。現在は西宮神社本社に比べると、とても小さくひっそりとしております。しかし、この南宮神社こそが、全国のえびす信仰の発祥地でございます。

 神殿前の狛犬の台座に「世話人 梶屋源七 辰巳屋茂兵衛 木津屋六兵衛」の文字が刻まれております。辰巳屋と木津屋の取り合わせ、そして、木津屋六兵衛の名前などから、当家同族である鰻谷の木津屋と辰巳屋ではないかと推測されます。

 昔から商家では、商売繁盛を願って、えびす様に参ったのではないでしょうか。



法隆寺 西円堂「峰の薬師」

 法隆寺と木津屋の間で交わされた古文書が残っております。法隆寺といえば聖徳太子様が建立した寺院でございます。
 聖徳太子様とは縁深き当家ですが、詳細は調査、研究中でございます。


日下山 願泉寺

願泉寺 小野義持

 日下山願泉寺(くさかざんがんせんじ)は、木津屋日下家の始祖となる小野義持(おののよしもち)が、聖徳太子様の命により開いた寺院で、法隆寺や四天王寺に匹敵する歴史がございます。当家の根本たる本家でございます。


 かつて願泉寺は、松と藤の美しい大阪の名所で、宮様、お公卿様などの貴人も多く訪れて賞賛をしております。

欽明天皇

 願泉寺は、欽明天皇行宮の地に建てられ、今尚その栄光を伝えております。

 日下山願泉寺は大阪市浪速区大国の地に御鎮座しておりますが、この地は第29代欽明天皇が行宮を建てて過ごされ、大変由緒の素晴らしい地でございます。かつてこの地は「難波の海浜」と呼ばれており、海のそばでございました。このような禁裏(きんり)に住まいを賜ることが出来たのは、御先祖の小野義持及び、小野妹子を中心とする小野氏一族が、大王(天皇)に極めて近い位置にあった証であると考えられます。

推古天皇

 准如上人より本願寺の「願」の字を賜り、願泉寺となりましたが、その昔は、寺名を「無量壽寺」と申しました。この「無量壽寺」の名は推古天皇より賜りし寺名でございます。第33代推古天皇は日本初の女帝であり、当家と縁の深い聖徳太子様とも密接な関係にございました。摂政である聖徳太子様(廐戸皇子)による偉業の多くは、推古天皇との連携により行われたと考えられます。



お家制度への回帰

 何故、今の時代に、お家(おいえ)なのか。それは、近年の法人会社の多発する不祥事を見れば、判って頂けるのではと思います。今の世の中は、全て合理主義の元、有限責任という、まるで「とかげの尻尾」のような経済構造になっております。表面上は、出資者、経営陣、労働者、投機家などが、上手く結びついて機能しております。しかし各人の中には、連帯感、使命感、大きい観点からの倫理感や責任感などがあまりなく、自分の立っている位置でしか物を考えておりません。ひとたび問題が生じると、責任の擦り合いで、まさしくとかげが尻尾を切って逃げるような有様でございます。
 しかし、昔の商家ではそのようなことはございませんでした。店に従事する者の問題は、全てお家全体のこととして捉えて、生涯に渡る責任の上に成り立っていました。当主は、番頭・手代・丁稚などの使用人を、我子のように面倒を見、また使用人の側も、お家の者を本当の親のように敬っていました。このような風潮の中で、お家としての統制がなされ、皆で一致団結して「暖簾」を守っていました。
 21世紀の今、この忘れられていた、「お家」の精神に回帰する時がやってきたのではないでしょうか。日本の古き良き時代の「商家」が増えていけば、国全体が、もっと温かみのある素晴らしいものになって行くのではと確信しております。
 近年、町並みがつまらなくなってきております。日本中どこに行っても、大手チェーンの店が通りを埋め尽くし、その土地ごとの郷土というものが、ほとんど感じられなくなっております。日本全体が平均化され、個性が没落してしまったのではないでしょうか。
 郷土の伝統を大切にし、各家々が素晴らしいものになれば、日本はもっともっと良くなっていくことと考えます。