大坂堀江

堀江の起こり

 大阪堀江は、近年特に変貌を遂げている魅力的な町でございます。堀江は、江戸時代よりその時々で姿を変えながら、今日まで発展してきました。北堀江と南堀江からなるこの素晴らしい堀江の町を研究し、お伝えしていきたいと思います。

戦前の堀江 堀江の起こりは、江戸幕府がこの地域を開発したことに始まります。元禄11年(1698年)に堀江川が開削され、湿地帯であった土地が開発されました。開発された土地は、入札により払い下げられました。
 堀江の中でも木津屋のございます地域は、堀江川開削前より町並みが出来上がっていた地域でございます。これは、木津川及び道頓堀川の水運を利用した商いが盛んであったのが要因と思われます。何はともあれ、木津屋の歴史は堀江の歴史と言えるでしょう。堀江と共に歩んできた商家でございます。

 大阪は昔、大坂と言いました。「おおざか」と呼んだようでございます。

 写真:木津川と道頓堀川の交わったあたりから、堀江の町を望む。(木津屋のある南堀江四丁目あたり)


難波の堀江

 古事記に「難波の堀江」という記述がございますが、この西区の堀江とは異なるというのが、通説です。

 しかし、北堀江にある和光寺の阿弥陀池の伝説もございます。廃仏派の物部氏が蘇我氏から奪った阿弥陀如来像を「難波の堀江」に叩き込みました。その後、信濃国国司の本田善光が、「難波の堀江」に棄てられた阿弥陀如来像を池より拾い上げて信濃へ持帰り、阿弥陀如来を本尊とし善光寺を興したとされています。そして、この「難波の堀江」が阿弥陀池と呼ばれるようになったというものです。

 この物部氏の行動が後に、蘇我氏と聖徳太子様による物部守屋征伐に発展いたします。当家の御先祖はこの戦いで功を成し、聖徳太子様より「日下」の名を賜りました。


堀江の地名

 今はざくっと堀江と呼ばれている地域も、江戸期には、「木津屋」界隈の葭屋町、玉手町など、京都のように風流な町名がたくさんございました。

南堀江1丁目新灘波中之町、釜屋町、新灘波東町
南堀江2丁目徳壽町、新灘波西之町
南堀江3丁目新戎町
南堀江4丁目葭屋町、桑名町、玉手町、松本町、伏見屋四郎兵衛町、下博労町、新大黒町
北堀江1丁目宇和嶌町、平右衛門町、吉野屋町
北堀江2丁目白髪町、冨田屋町
北堀江3丁目白髪町
北堀江4丁目弐本松町、西濱町、宮川町、長堀高槁町

新地開発前の町名(執筆中)

南堀江1丁目道頓堀新難波町
南堀江2丁目 
南堀江3丁目 
南堀江4丁目下博労町、新大黒町、伏見屋四郎兵衛町、伏見清水町、北新町、大津町
北堀江1丁目宗無町、次郎兵衛町、横堀呉服町
北堀江2丁目新兵衛町
北堀江3丁目白髪山兩裏櫂屋町
北堀江4丁目下博労町、東伊勢町、弐本松町、西濱町、伏見伊勢町

 【こぼれ話】 現在の長堀橋の辺りに、次郎兵衛町という地名がございましたが、この地名は、長堀川の堺筋辺りを開削した池田屋次郎兵衛の名前に由来しております。


戦前の堀江

江戸時代の堀江

花街(はなまち)

戦前の堀江 堀江はかつて、花街(はなまち)でございました。


分断された堀江の歴史

 地域によっては、戦前と戦後が一つの線で繋がっている処もあろうかと思います。しかし、こと大阪、特に中心地にいたっては、戦前と戦後が完全に分断されてしまっております。
 一つには、物理的に、家屋敷や文書などの記録が消滅してしまったこと、そして歴史を伝えるべく人を失ってしまったことに起因します。
 今を生きる私たちには、残された数少ない貴重な記録を、研究・整理し、未来に伝えていく義務がございます。また、当時を体験されてきた方々の声に耳を傾け、記録し残していくことも重要で、これは急務と言えます。古文書はすぐには消滅しませんが、人は皆、限られた生命の中に生きております。

 これらのことをやり遂げて初めて、戦前の堀江と戦後の堀江が、繋がっていくのではないでしょうか。


堀江ゆかりの人

大石順教尼

歌舞伎の演目でも知られる「堀江六人斬」で、うら若き身に試練を負った乙女が、後に、芸術の花々を沢山咲かせました。大石順教尼


現在の堀江

 現在の堀江については、木津屋の主たる業のサイトに、紹介ページがございます。
 外部リンク 北堀江・南堀江


堀江についての参考文献

 南堀江・北堀江の歴史について知る、重要な参考文献を挙げておきます。