木村蒹葭堂

木村蒹葭堂とは

 江戸時代、木津屋のある堀江に木村蒹葭堂(きむらけんかどう)という人物がありました。蒹葭堂のお家は造り酒屋を営む商家で、屋号は坪井屋と云いました。

木村蒹葭堂邸

木村蒹葭堂邸跡の石碑 「木村蒹葭堂邸跡」の石碑が、大阪市立中央図書館の南東角に建てられています。

 大阪市立中央図書館の建つ地は、木村蒹葭堂邸があった所ではございません。

 木村蒹葭堂邸があった所は、石碑から西の方角で、大阪市立西高等学校の南側、ファミリーマートの西隣です。今はコインパーキングになっています。



木村蒹葭堂邸跡木村蒹葭堂邸跡木村蒹葭堂邸跡


(左の写真) 右奥に見えるのが、大阪市立中央図書館です。記念碑はさらに右側(東側)にあります。
(平成26年6月11日撮影)

(真ん中の写真) 奥に見えるのが大阪市立西高等学校です。
(平成26年6月5日撮影)

(右の写真) この道路の一本南側(右手)に堀江川が流れており、その一辻先の新なにわ筋あたりに「瓶橋」が架かっていました。
(平成26年6月4日撮影)


木村蒹葭堂の大木今も尚、江戸地代のありし日の姿を偲ばせる、大木の切り株。

下の写真の、左側の木と思われます。

(平成28年5月31日撮影)


木村蒹葭堂邸跡昭和54年頃撮影と思われる写真

【 出典 】
古西義麿著「木村蒹葭堂邸跡周辺と市立中央図書館」『大阪春秋』第20号「特集・西区及び西大阪」(大阪春秋社刊)所収、44頁より転載(写真提供:大阪春秋編集室)



木村蒹葭堂の墓

大應寺大應寺浄土宗 棲巖山 大應寺(だいおうじ)

大阪市天王寺区餌差町3-15


木村蒹葭堂の墓木村蒹葭堂墓所 表には「木村蒹葭堂墓所」の石碑が建てられています。木村蒹葭堂の墓碑は、ガラスのケースでしっかりと守られています。大切にされていることを感じとれます。



木村蒹葭堂の客人

 木村蒹葭堂を訪れたお客は、彼が書き記した数だけで延べ9万人にもなり、著名な人物も多数訪れております。

薬種商 木津屋

木津屋治郎兵衛

 当家「木津屋」の御先祖も、木村蒹葭堂と交わりがあり、「木村蒹葭堂日記」には度々その名前が見えます。三世、四世、五世の木津屋治郎兵衛が生きた時代になります。「隠居」という文字も記されており、お家ぐるみでの付き合いがあったと推しはかれます。住まいが近かったので、いわゆる「ご近所さん」というお付き合いだったのでしょうか。

 木村蒹葭堂は本草学(ほんぞうがく)も研究しており、木津屋のなりわいと通ずる所があり、お互い話が合ったことと思われます。また時として、蒹葭堂も木津屋のお客であったのではないでしょうか。


木津屋雪

奴の小万 「奴の小万」(やっこのこまん)と呼ばれて世に名を響かせた木津屋お雪も、木村蒹葭堂と交わりのあった一人です。お雪は女侠客として、とても有名であったようで、当時から芝居の演目になっておりました。晩年は仏門に入り、三好正慶尼(みよししょうけいに)となりました。

写真:末吉橋西詰交差点(右が心斎橋) 右の奥に小さく見える白い壁の建物は「元住友家本邸のビリヤード場」(銅吹所泉屋跡)です。この東側(左側)に木津屋(五郎兵衛)はあり、お雪は、娘時代をこの家で過ごしました。

 木津屋お雪(三好正慶尼)に関しては、木津屋お雪(三好正慶尼)が詳しいです。



木村蒹葭堂日記

 蒹葭堂は、自宅に文化人などを招いて交流し、それを記していきました。その記録は「木村蒹葭堂日記」として残っており、江戸時代の研究にはとても大切なものとなっております。

木村蒹葭堂の本

たぐいまれな人、木村蒹葭堂を知るための本をご紹介します。

平成の木村蒹葭堂

つくばい 平成の世、同じ堀江の地で、また、御先祖様がお客としてお世話になった木津屋において、「木村蒹葭堂の社交場」を蘇らせています。木村蒹葭堂邸跡から南西に5分くらいの所です。

 二百年の歳月を超え、木村蒹葭堂の意志を引き継いだ文化サロンを、木津屋において再現できることは、とても意義のあることと考えています。「あなたも、歴史あるサロンのお客様になってみられてはいかがですか。」 創業三百有余年の木津屋で、江戸時代に想いを馳せて。木村蒹葭堂の意志を引き継ぎ、敷居は極めて低くなっております。どちら様でもお気軽にお越し下さい。

 第三土曜日 夕方五時から八時 木の津の集い(お茶会)